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原爆体験記「青空」

原爆体験記「青空」山本睦子

被爆地 西山2丁目  当時:9歳
 
 私は長崎に原爆が落ちる1年前に大阪から父の仕事の都合で引っ越してきました。当時私は付属小学校に通っており原爆が落ちた日は夏休みではありましたが、登校日の為学校に行っていました。警戒警報が発令され自宅に戻る途中に解除になったので、無事に戻ることができました。丁度兄も帰って来たので一緒に玄関を開け彦山を見ながら白ブラウスのまま玄関先に座り、昼には少し早かったですがお弁当を食べていました。食べ始めて10分位経った頃飛行機の音がして正面を見ると飛行機が見えピカッと光線が目に入ったと同時に凄い爆音・爆風で10メートル先の裏の崖に飛ばされました。兄と私は、200メートル先の町内で作った大きな防空壕に逃げる途中、頭や身体に黒い雨が降りかかりそれに私の右背中から血が流れているのを後ろの人から知らされました。縦4センチ・深さ3センチの大怪我を負いヨロヨロ状態で手を引かれて防空壕に着きL時型の防空壕の奥に寝せられました。きっと爆風で飛ばされた時にガラスが刺さり怪我をしていたからだと思います。洋服の上からだったのでガラスは中に入り込んでいなかったのが幸いでした。母は配給をもらいに行っていたので無傷でした。母も防空壕に逃げてきましたが、1番下の弟がいなかったので近所の人と一緒に弟を探しに戻りました。弟は崖の下に飛ばされており、母が見つけた時には恐怖で震え声も涙もでなかったそうです。父は大波止で被爆し頭に怪我をしました。
 1か月余り防空壕で過ごし、その間知人の看護師さんに手当てをしてもらい体中を包帯で巻かれ、食欲不振で立ち上がることも出来ませんでした。被爆後、20日位経つと髪の毛が全体の3分の1ほど抜け落ち、食欲もなかった為、両親から食料を口に押し込まれ涙を流して少しずつ食べる日が続きました。出血し貧血が酷くならない様に毎日、両親が西山木場のお百姓さんの所に、家にあった着物を持って行きました。父は小さなカボチャ1個とお米1合を着物1枚と交換し、母は卵2、3個とレバー2個を着物1枚と交換する日々が続きました。交換してきた食べ物は防空壕前の七輪を山から木々を集めて使いました。家から持ってきた大きな鍋に西山水源地から汲んできた水を沢山入れ、お米1合や芋づる・カボチャを入れ量を多くしておじやのようにして子供達にお腹を満たせるようにしてくれました。それでも1日2回食事ができれば良い方でした。私の為に、レバーと交換してくれていましたが、ちゃんと調理されていない物だったのでとても生臭くて嫌いでしたが、私達・子供達の為に両親がとても苦労して助けてくれたのは今でも忘れられません。自宅に寝られるようになった頃、新大工町の中村医院の戦線に頼み両親に連れられ毎日注射に通いました。5年生から学校に通うようになりましたが、運動会には一切参加せず走ることも出来ず痩せた体で病院と縁が切れる事なく高校生になっても走る事が出来ませんでした。病気の原因や病名がわからず病院を転々としました。足のふらつき、体のだるさ、食欲不振が続いたが、甲状腺と病気がわかるまで何年もかかり病名が分かった時には20歳を過ぎていました。その後も、色々な病気に苦しみました。40歳くらいには白内障・目の奥の黄斑変性症は手術をしても治る確率が半分位が精一杯なので簡単には手術が出来ないと言われたので手術はしていません。65歳の時には胆のうを全摘出する手術をしました。
 今でも甲状腺、血圧、頭のふらつき、体のだるさにとても苦しんでいます。原爆投下から74年が経ちましたが当時の事を思い出すと胸が苦しくなり涙が出ます。もう二度とこのような経験をしたくないし、してはならないと思います。
 
聞き取り職員 平野千鶴美
社会福祉法人純心聖母会
〒852-8142
長崎市三ツ山町139番地2
TEL:095-846-0105
FAX:095-846-0135

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