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原爆体験記「青空」

原爆体験記「青空」川下キクエ

被爆地:本河内町  当時:22歳
 
私は大連で看護婦をしていました19歳の時満州から長崎へ帰ってきて、城山の2丁目138番地に住んでいました。原爆が投下した8月9日は22歳で、小学1年生のよその子と6年生の従兄の子を2人預かっていました。その日は、前日疎開先から遊びに来ていた母親が細かいおひつに入った味噌を忘れて行ったため、持って行ってやらんばねと思い、2人の子どもと一緒に疎開先の網場に向かっていた。朝の6時に家を出て、電車に乗って長崎駅に行った。駅から子どもを連れて山越えをし、10時30分に日見トンネルの西口に着き、トンネルを出たらお諏訪さんに出た。子どもが「お姉ちゃん、お腹がすいた。ご飯を食べようか」と言い、配給で頂いた米一合と芋の茎、大豆で作った弁当を座って食べようとしたら、真っ暗になってドカーンと音がした。雲が上がって白い紙きれがひらひら降ってきた。お諏訪さんで歩いて来る人を見ると、焼け爛れてぼろぼろの着物を着て血を流した人が、両方から抱えられて歩いて来たのでびっくりした。「うちらだけどうしたんやろうか、何かけがしたんやろうか」「ごはんを食べようか」とおにぎりを食べ、夜の9時に網場に着いた。家には誰もおらず防空壕に行くと母がいた。体から血が出て裸同然で歩いて来た人がおったという話をした。母親から「危なかけん帰れ」と言われ、歩いて夜のうちに県庁の坂道まで戻ったところ憲兵と警察が、5、6人出てきて「あんたどこに行くとか?」と言われ「家に行く」と言うと、「今、城山は帰られん。火の海」と言われ「何か火事のあったとですか?」と言うと「爆弾の落ちて家も一軒もなか、行き先のあったら網場に帰れ」と言われ、また網場に帰った。

翌朝早く、預かっていた2人の子どもの父親が網場に来た。2人の父親は、城山で防空壕にうつぶせになって真っ黒になって、ペチャンコになっている3人の遺体をお姉ちゃんと自分の子どもだと思って離れきれず、1人は頭元、1人は足もとに一晩中座り、念仏を唱えていたと言った。従兄が「網場に行ってみよう」と言い、来てみたら3人がいたので、ひどくびっくりして喜び安心して自分達の持ち場に帰って行った。 

翌日、誰か知っている人がいないだろうかと思い、救護所の勝山小学校に行ってみたが、知っている人は一人もおらず死んだ人ばかりだった。ハエがぶんぶん飛んでいて、ウジがわき、体を這いずりまわっていた。銭座町で焼けただれて首のない子どをも抱いている人がいた、これが本当にかわいそうだった。昔は農業が多かったから豚やら牛やら馬やらがたくさんいて、あっちにもこっちにもごろんごろん転がっていて、その間中に死んだ人が道にずらっと並べられていた。

今、ブリックホールがある所は三菱兵器で爆弾を作っていた。浦上川は石垣のように人間が重なって「水の欲しか」と言っていた。今の原爆病院のあたりは競輪場だった。皆座って手を挙げていたが、腫れてしまって手が握られん、顔も何もわからなかった。城山の自宅の並びは5、6件ペチャンコに倒れていて、両脇は焼け野原だった。「何かなかかなあ」と探すと、ペチャンコになった家の前に自分のアルバムが玄関の前で焼けていた、そのアルバムを持って網場に帰ることにした。その時に持ち帰った写真は今も持っている。それから長崎には入っていない。 

家族は皆網場にいて無事だった。私も味噌のおかげで助かった、あれを持って行かなかったら。もうあんなことは二度と嫌、もうやめてほしい。山口先生、あの人はひどかった。ずいぶん整形していた。戦争は二度と嫌。生きてるうちは戦争はしてもらいたくない。 

 


                                                              聞き取り職員 江川 愛


 
 
 
 
 
 
 
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