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原爆体験記「青空」

原爆体験記「青空」 堤アサ

被爆地:梁川町 当時30歳
 
 梁川町の自宅にて30歳で被爆。その時、三人の息子と義母、義妹、甥が住んでおり、主人は三菱から熊本の健軍に出張中であった。
 下の子二人と私が玄関付近にいる時に、ピカっと光り、とっさに三男の体に覆いかぶさり、体に木切れのような物が落ちて来た。しばらくじっとして頭を上げると次男が駆け寄ってきた。玄関にあった大きな鏡が倒れてきた為か次男は顔、体中にガラスが刺さり血だらけで私の所まで来ると気を失い死んだのかと思った。次男を抱え畑に寝かせたが、連れて行かれては困ると思い布団をかぶせた。その後も飛行機は飛んでおり、知らされていなかった為それが原爆だとは知らず、焼夷弾だと思っていた。夕方、一箇所に居ようと思って義母、次男、三男を裏の防空壕に連れて来た時に次男が息を吹き返し一夜を過ごす事にした。
 隣接する当時の避病院(現在の成人病センター)に向かって長男ケン坊の名前を呼び続けた。病院の一角から燃え出した火は次々と燃え広がり一週間ほど燃え続けた。翌日、製鋼所で医者が診ていると聞き、次男をタオルにくるんで抱いて連れて行った。製鋼所の診療所に行く途中、トラックの下や入口でも人の「助けて下さい」と言う声を聞いたが私はどうする事も出来なかった。医者が引き上げてしまっていたので、次に稲佐小学校に行った。教室の半分に机を寄せ、その半分には運ばれた人を寝かせ、又その半分には治療をする人が待っていた。運ばれてくる人の中にはすぐに亡くなる人もいた。「一人死にました。」と正の字で数をとっていた。次男は傷が多いからと医者が手を引いたので、私が赤チンの液の中に手を入れ顔中のガラス片を一つずつ抜いた。
 義妹は三菱製鋼所に勤務しており矢上に逃げ三日後に帰宅し、その後兄弟宅へ疎開。義母はタンスの下敷きになり腰を打ち歩けなくなった。その後、上町の娘家族が迎えに来て疎開先へ連れて行った。甥は瓊浦中学校へ行っており帰宅後、祖母宅へ帰らせた。三男は銭座に住んでいる知人が、実家の長与へ疎開するよう手配をしてくれ、梁川の自宅へ寄ってもらい三男を連れて行ってもらった。
 小学一年生の長男ケン坊は原爆が落とされる前に私を見て安心したのか近所のカドちゃん家に遊びに行ったと息を吹き返した次男からあとで聞いた。カドちゃん家は全焼で何も残っていなかった。カドちゃんのズボンのバックルだけが残っていたとカドちゃんの母親から聞いたがケン坊の物は何も残っておらずその辺りのお骨を頂いた。
 進駐軍が来ると決まってから、何もかも置いて次男をおんぶし、浦上駅へと向かった。被爆後、初めて列車が走る日に駅に行ったが人が多く結局列車には乗れなかった。時津、長与を通り母が疎開していた一本松まで、6時間かけて歩いて逃げた。次男を背中に負ぶった為自分も背中の傷が化膿した。病院には行けず、父がオキシフルで拭いて赤チンを付けてくれ、うつ伏せの状態で三週間床に着いた。父からは「死人の臭いがする。」と言われた。
 下大橋の川沿いには一ヶ月も二ヶ月も死体が山のように積まれてあった。休みごとに自宅へ帰り必要な自分の物を持ち帰った。自宅は山陰にあった為、向かいの山で跳ね返った爆風で家の一部が壊れたが燃えなかった。しかし、自宅にあった物は何もかも持ち去られていた。
 旧正月が過ぎ自宅へ戻ると、屋根は無く台所の板敷きだけは残っていた。瓦一枚も後片付けや整理してもらえず、全部自分たちの手で作業を行った。東日本大震災では自衛隊の手伝いがあったが、原爆時には誰も片付けはしてくれなかった。
 原爆について考えたくない。落ちてこないだろうと反発心がある。原爆記念日には鳥肌が立ち、体が震える。いくさに負けたと思う気持ちと、ただ原爆を憎みます。

聞きとり職員  脇浜幸江    
 
社会福祉法人純心聖母会
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